この静けさは菊丸家とは思えない程だった。
それでも話し合いをすればこの空気から脱出することができると英二は信じていた。
だからこそ不二の話に耳を傾けてじっと堪えていた。
本当は辛くて仕方なかった。
やはり不二は好意を寄せられていたという事実を英二は受け止めるのにやや時間がかかった。
もちろんわかっていたことだったが話を聞いているのは苦痛だった。
気が付けば自分の手の爪が腿に食い込んでおり、痕が付いている。
「でも英二…僕ははっきり言ったから…もう大丈夫だよ」
「…ホントに?」
「向こうがどう出るかわからない。でも僕は取り合う気はないし、英二に辛い思いもさせたくない」
「うん…」
「今日のこと…許してもらおうなんて調子がいいかもしれないけれど…僕は英二と喧嘩したままでいたくない」
「うん」
二人とも黙るとチッチッと時計の秒針の音だけが響く。
言い出さなくてはならないことがまだあったが不二は語らなかった。
英二に謝って早く仲直りがしたかったのだ。
「ごめんね、英二」
「もういいよ、今日のことは。俺も…大石の家に行ったんだ。相談に乗ってもらいたくて。でも解決なんてするはずないんだ。お互いに話し合わなければ意味がないって…わかったんだ」
不二は少し怪訝な表情を浮かべたが英二は気にしなかった。
英二はコップを手に取り、水を飲む。
もちろん味はするはずがないのだが、何故かこの水は苦い。
あまりにも美味しくないので完全に飲み干すことはできなかった。
喉奥にまだ水が引っ掛かっているような感触を残しつつ、英二は空虚な世界を打ち破るために言葉を放つ。
「俺達…仲直りできるよね」
「あぁ、もちろんだよ英二。僕達はずっと一緒にいられる」
さりげなく腕を英二の背に回し優しく抱き寄せた。
仄かに不二のいつものにおいがして英二は先ほどまでの心拍も落ち着いてきた。
もっと側にいて欲しくて自然と英二は不二に身を寄せる。
まるで寒い路地裏に身を寄せ合っている野良猫の気分だった。
この気持ちは大半の人間には理解してもらえないだろうし、相談できる相手だって限られてくる。
だからこそ二人は見えない闇に包まれて、気付けば一人ぼっちになる。
不安がある。
「不二」
「なに?」
「今日…泊まって行けよ」
「いいのかい?」
「今一人にされる方がもっと辛い」
「そうだね」
まだわだかまりはあったが仲直りをした二人は暫く動かずにソファで身を寄せ合っていた。
落ち着いたところで英二が立ち上がり、夕飯を御馳走すると言った。
英二が調理をしている間に不二は電話をすると言い、携帯で家に連絡をしていた。
二人だけの夜。
こんなシチュエーションは願ってもなかなか訪れることはない。
しかしこんな恵まれた環境でありながらそのムードに浸れるほど二人の仲が完全に修復したわけではなかった。
調理を終えた英二はテーブルに配膳し、不二に声を掛けた。
それはいつか見たカレーライスである。
以前作ったときは不二の家であったが不二は見事フライパンを焦がし、話にならないほど調理が下手だったので代わりに英二が作ったのだった。
だが今回は英二が自分の家で作ったので以前とはまた香りも違い、見た目も若干違っている。
「前に言ってたやつ。スパイスから全部自分で作ったんだ。食べさせる約束…してたもんな」
「そうだね…嬉しいよ、英二」
二人は合掌し、カチャカチャとスプーンと皿の音を奏でながら夕食をとった。
さりげなく英二が他愛のない話を始めたので不二もその話に乗り、完食し終える頃にはお互い笑顔で話せるほどになった。
喧嘩していたのが馬鹿らしく思えるほどだった。
食器は不二が片付けることになり、テレビを付けて賑やかな空間の中、英二はまったり休んでいた。
まるで同棲しているカップルのような感覚に英二の心臓はうるさく鳴っていた。
「英二、食器はここでいい?」
「うん!その辺に伏せておいてちょー」
中学生だがこの同棲している雰囲気が堪らなく嬉しくて英二はニヤニヤしていた。
自分達が大人になれば夢ではないのだ。
不二と同棲することを妄想した英二。
きっと楽しいに違いない。
そして毎日が甘い生活となるのだろう。
今は年齢の都合上できないことが多くても社会人になればできることはどんと増える。
そうしたらどんな素敵な暮らしが送れるだろう?
考えただけでもぞくぞくする。
すると突然不二が後ろから抱き締めてきたので英二は口から心臓が飛び出そうになった。
「ごめん!おどかしちゃった?」
「ううん、そうじゃない…そうじゃないけど…」
伝わるはずはないのだが今妄想していたことが筒抜けだったらどうしようと英二は焦っていた。
もちろん不二は何の事だかわかっていない様子だったので英二は安心した。
皿洗いを終えた不二は英二の隣に座り、一緒にテレビを見ていた。
英二がテレビを付けているだけで実際見ていなかったことは不二にはお見通しだったようだ。
「そういえばお風呂ってどうする?」
「不二先入っていいよ」
「じゃあ先入らせてもらうね、あぁ着替えとかないけど大丈夫かな」
「来客用のパジャマはあるよ。俺の家、たくさん出入りあるからそこらへんは安心して」
「御兄弟の友人も来られるんだね」
「そうそう」
パジャマを渡すと不二は笑顔でそれを受け取り浴室へと向かった。
なんてことはない普通の日常。
だが不二がいることによって全くもって普段とは異なる生活に変化する。
バラエティー番組が始まりやたら笑い声がうるさく感じたので英二はテレビの音を小さくした。
これからどうしよう。
英二は今後の先に不安を覚えた。
ついさっきまでは仲直りをするにはどうしたらいいのか考えるばかりだったので今夜のことなど考える暇もなかった。
しかし不二が今風呂に入り、そして次は英二が入る番になるだろう。
その後は?
それを考えた瞬間、以前不二の家に遊びに行ったときのことを思い出してしまった。
不二の家に遊びに行ったのはデートをした日の夕方のことだ。
もう少しで家の中までバーニングするところを英二が止めたおかげでなんとか逃れたあの日。
英二のお手製カレーライスを披露して食したあと、ぽっかりと穴が空いたような雰囲気に英二は何故か緊張した。
なんともいえない微妙な不二との距離感。
近いようで遠い、でも手を伸ばせば届く距離。
この後どうするべきか英二は考えていた。
『英二は…今日泊まっていくのかい?』
『どうしようかな…』
ただの友人ならばここでためらいもなく泊まると英二は言うだろう。
だが不二と英二はただの友人と呼ぶには値しない関係だ。
つまりはこの質問には丁重に答えなくてはならない。
帰ると言えばその気がないという返事をすることと同じであるし、泊まると言えば承諾したことと同等だ。
不二が答えを待ち侘びていると英二はなおさらどうしたらいいか悩んだ。
まだ自分達は中学生だ。
そういうことには人一倍興味はある。
だがその一線を越えるにはまだ幼い年齢のような気がする。
そこで答えを出せず英二がもたもたしていると不二は一言言った。
『深く考える必要ないよ英二』
『え…?』
『英二が何で悩んでいるのかはわからないけれど…ただ泊まりたいか泊まらないか、それだけでいい』
不二の意図はすぐにわかった。
悩む必要はない、と言いたいのだろう。
だが不二も英二も男同士とはいえ付き合っている身だ。
泊まるということがどういうことかわからない程幼いわけでもない。
気にするなといっても英二は気にしないわけにはいかなかった。
泊まれば期待をするのが人間の性というものだ。
その期待に応えられないくせに泊まりたいなどと言うのは間違っている。
ならばその受け入れる姿勢ができているかと言えば否だった。
英二は考えたことはあっても実際にその行為というものがどういうものか経験したことがない。
『英二…僕は泊まっていって欲しい』
不二がその一言を告げてからそう時間は経たないうちに英二は言葉を発した。
自分には受け止め切れない。
適当に返事をして不二の気持ちをないがしろにしたくはなかった。
『ごめん…俺は今日泊まらない』
『英二!僕は英二が考えてるようなことをしようと思ってるわけじゃないんだよ』
『でも期待はしてる』
その言葉を聞いて不二の全てが停止した。
動きも言葉も、そして息遣いも。
『期待しないヤツなんていないよ…俺だって期待してたし。でもさ…やっぱまだ無理なんだ』
『英二…僕は…!』
『ごめん!!』
初めての夜なんて迎えられない。
その経験が怖くて英二は不二の家から逃げるように自宅へ帰って行ったのだった。
英二も後から愚かなことをしたと後悔した。
だがあのときは受け入れることはまだできなかった。

